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ベネチアとベネチアのガラスとビーズの歴史

すてきなベネチアンビーズですが、今のようなすばらしい工芸品ができあがるまでには、さまざまな道のりがあったようです。興味のある方は、お暇つぶしにでも、読んでみてください。

VENICESEA.JPGベネチアのはじまり

 「水の都」「アドリア海の女王」と称えられ、一時代を築いたベネチアは、117(120以上ともいわれています)の島と150(170以上とも)の運河、400の橋で成り立つ水上都市です。海を埋め立ててこの地に人が移り住んだのは約1500年前。その後、7世紀にドージェ(統領)を戴いた共和制国家・ベネチア共和国が誕生し、貿易の中継地として東地中海の覇権を掌握しました。シェークスピアの戯曲「ベニスの商人」でも知られ、この街の美しさは「ベニスを見て死ね(See Venice and die)」という格言からもわかります(「ナポリを見て死ね」も有名。このように「〜〜を見て死ね」といわれる場所は世界各地にあるそうですが・・・。ちなみに日本では、「日光を見ずして結構というなかれ」というのがあります)

アドリア海に指輪を投げ入れ、海と結婚した」ともいわれる水上都市・ベネチア。

↓ベネチアの古地図(1913年)。運河と水路の多さがよくわかります。

 

VENEZIA1913.JPG - 80,086BYTES

ベネチアンガラスの起源

 ベネチアでつくられたガラスについての記述は西暦982年の記録にありますが、実はそれ以前のことは謎に包まれています。伝承によると、北アドリア海沿岸に住んでいたヴェネティ族が西ローマ帝国崩壊後、6〜7世紀に、蛮族から逃れるため、ベネチア諸島に移住したのが起源とも。イスラム世界とヨーロッパ世界との接点にある地理的な理由もあったのでしょう、対岸のアドリア海からガラス職人が移り住み、ベネチアでガラス技法を伝えたそうです。すでに彼らは古代ローマ時代より高い水準のガラス工芸の技を持っており、それをこの地にもたらしたのが、ベネチアンガラスのはじまりとなったのではないかと考えられています。

 

 

 

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西暦600年頃のベネチア周辺。→
(まだベネチアという国はありません)

 

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←西暦700年頃。ヴェネテイ族の都市国家が生まれています。

 

「飴とムチ」で秘法となった工芸技術

 さらに本格的なベネチアンガラスの製造は、11世紀に入ってから活発になりました。サン・マルコ大聖堂の再建においては、すべての壁面にガラスモザイクがほどこされています。ギルド(ガラス職人組合)が結成され組織的に生産されるようになったのは、さらに200年ほど経った13世紀のことです。しかし1291年、共和国政府は、ガラス工場で火事が起こったことから、木造建築物の多かったベネチア本島の火災防止を理由に職人たちと工場をムラーノ島へ強制的に移してしまいます。そして職人たちには、島から出ることを禁じ、脱出する者には死罪を科しました。その引き代えに、産業の興隆に貢献した者には貴族の称号が与えられたとか。しかしこれは、ガラス製造の秘法を一切外部に漏らさないため、というのが本音の国SANMARCO.JPG - 19,703BYTES策で、いうなれば「飴とムチ」の政策でした。こうして、高い技術を囲い込むことで、他国との競争力を堅持し、ベネチアのガラス産業は次第に規模を拡大していったのです。

←サン・マルコ大聖堂とその前に広がるサン・マルコ広場。

 

ベネチアとベネチアンガラスの盛衰

 ベネチア共和国自体の最盛期は15世紀でしたが、1453年にオスマン・トルコがイスタンブールを陥落させたことによって、貿易産業は衰退し、政治力も失ってしまいます。しかし、それでも文化の衰えはなく、ベネチアンガラ1500.GIF - 99,920BYTESスの最盛期は16世紀〜17世紀まで続きます。特に、乳白色のレースガラス(色ガラス棒を縞模様に埋め込むことをヴェトロ・ア・フィリ、色ガラス棒を網目状に埋め込むことをヴェトロ・ア・レティチェッロ、レース棒を組み合わせてより繊細なレース模様をつくり出す方法をヴェトロ・ア・レトルティというそうです。ヴェトロvetroはガラスの意)は、各国の王侯貴族の間で人気沸騰でした。ところが1789年にフランス革命が起こり王侯貴族などの特権階級は没落し、市民階級が台頭。1797年にはナポレオンの侵入によって、ベネチア共和国は崩壊、その後はオーストリアとフランスによって2度ずつ、交互に統治されます。1866年にはイタリア王国に併合。この頃からベネチアは衰退を余儀なくされます。

地図は1500年頃のヨーロッパ。部分がベネチア、がイスタンブールです。が黒海、がエーゲ海、が地中海であり、イスタンブール(=コンスタンチノープル)はヨーロッパとイスラム・アジアとの間の海上交易の要所であったことがわかります。

 

ベネチアンビーズの黎明期

 このような歴史の中、ベネチアンガラスのビーズは、12世紀頃にはすでにつくられていたようです。当初は権力者や貴族のための宝石のイミテーションとしてはじまり、さらに進化を遂げ、15世紀には、ランプの炎でガラスを溶かし芯に巻き付けるという製法(ルーメ)が生まれました。これは主に女性の職人の仕事だったようで、現在もベネチアンビーズの細工師には女性が多く、彼女たちはスピアルーメと呼ばれています。

↓ベネチアの古い寺院。本文とはあまり関係ありません

VENICEJIIN.JPG - 7,310BYTESベネチアンビーズの隆盛と衰退

 ベネチアでは、オスマン・トルコのイスタンブール陥落後の16世紀にも、アフリカ向けの大型でカラフルな色合いの新しいビーズがつくられるようになりました。18世紀になると、アフリカや東南アジアへ大量のビーズを輸出したそうです。ナポレオン侵攻による国家崩壊の直前こそ、ベネチアンビーズ産業の最盛期でした。
 その後、戦争にともなう海上封鎖によって貿易航路が絶たれ、ベネチアンガラスの東方への販路が確保できなくなったこと、また、19世紀のはじめ、ナポレオン軍によってガラス職人組合が廃止に追い込まれたことによって、ベネチアのガラス産業は一気に落ち込んでしまいます。そして、実質的にはこの産業が途絶えたかと思われる時期もあったようです。

VENECE7.JPG

サンタマリアデルサルーテ教会。→
本文とはあまり関係ありません。


ベネチアンビーズ再興

 しかし、そこでベネチアのガラス産業を救ったのが、ビーズづくりだったともいわれます。スピアルーメたちは、コンテリエとよばれる極小ビーズをつくり、フランス革命によって王侯貴族に代わり台頭してきた新しいブルジョア層の顧客開拓に成功。このコンテリエが、ベネチアンガラスが息を吹き返すきっかけの一つとなったのです。ヨーロッパをはじめ、英、蘭、仏の植民地であったアフリカ各国へ向けても、このケシ粒ビーズは大量に生産され、輸出されました。
 20世紀に入り、チャールストンの流行にともなって、女性の衣装を覆ったのもコンテリエでした。また、1920年代は博覧会の時代であり、ベネチアンガラスがそれまでの工業製品からアートへと認識される機会にもなりました。


NOW.JPG - 32,195BYTES今に受け継がれる伝統の技

 2度の世界大戦を経て、イタリアは共和制の国家となり現在へといたっています。18世紀以降、ベネチアはガラスの生産量においては、ボヘミアやドイツに押されてしまいました。しかしそれでも独自の文化を守り続け、その独特の技法を使った美しいガラスは健在。さまざまな技を凝らしたベネチアンビーズも、世界中で人気を博しています。

←現在のイタリア。

ガラス工芸の島・ムラーノ島

  潟(ラグーナ)のほぼ中央にあるサン・マルコ広場からヴァポレット(水上バス)に乗り、運河を約15〜20分行ったところにある、ムラーノ島。別名「ベネチアの妹」とも呼ばれ、ベネチアンガラスのほとんどがこの島でつくられています。ムラーノ島のガラス産業の中心地は、フォンダメンタ・デイ・ヴェトライ(ガラス職人通り)。ガラス工房がぎっしりと立ち並んでいることから、このように呼ばれるようになったのでしょう。現在もこの運河通り、そして対岸通りのフォンダメンタ・マニンには工房やショールームが、たくさん並んでいるそうです。

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ラグーナ・ベネチアの地図(1913)。→
ベネチア本島の北東対岸にムラーノ島があるのがわかります。


参考図書
「現代ガラスの魅力」 芸術新聞社 1992 武田 厚
「イタリア職人(マエストロ)の国物語」 日本交通公社 1995 朽見行雄
「図説ヴェネツィア」 河出書房新社 1996 ルカ・コルフィライ(中山悦子訳)
「イタリア ハンガリー・チェコ・ポーランド 洋食器の旅」 リブロポート 1996 浅岡敬史
「きらめくビーズ」里文出版  2000 
「世界ガラス工芸史」美術出版社 2000 中山公男
「ヴェネツィアン ビーズ」 平凡社 2001 小瀧千佐子
「ヴェネツィアンビーズ」 日本ヴォーグ社 2002 佐藤理恵

photo:Water Wings

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